建築都市文化協会

一般社団法人建築都市文化協会

Architecture and Urban Culture Association

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創業者・幸四郎から受け継いだ「まちづくり・ものづくりを応援する」の原点

吉岡幸株式会社
代表取締役会長 吉岡正盛

地震の記憶が呼び覚ました、創業者の姿

「福井一の大和百貨店が倒れたらしい――」

昭和23年6月28日、戦後復興のさなかに発生した福井地震。マグニチュード7.3の揺れが市街地を襲い、死者3769人、そして街そのものが崩壊しました。

そのなかで現地にお見舞い急行したのが豊橋の仕入れ先・竹内正人氏。彼が回想記で語ったのは、被災直後に「建築ジャッキをトラック一車分、すぐに送ってくれ」と力強く依頼した、我が祖父・創業者の吉岡幸四郎の姿でした。

「供給者として、必要とされている時に動かなくてどうする」――この言葉は、ただの商取引を超えた“使命”の表れであり、企業としての存在価値を問う、本質的な問いかけでもあります。ジャッキ260台を一ヶ月で納入するという手配は、当時としては破格の大商い。しかし私たちにとっては、単なる美談ではなく、困難な時代の中で果たすべき“役割”を教えてくれる出来事でした。

元は福井城を中心とする城下町でしたが、戦災、福井震災、さらには洪水にもめげず、繰り返し立ち上がった福井の姿は、不死鳥にも似ています。その歴史の中に息づいているのは、苦難を力に変える市民の誇りと連帯の精神。そして、その精神は、私たちの中にも確かに息づいています。

こうした記憶をただ語り継ぐだけでなく、未来へとつなげていくこと――それこそが、地域と企業が担う新たな“役割”であり、次の世代への贈りものではないでしょうか。

自己紹介を少し――地味な歩みと20年の社長業

私(吉岡正盛)は昭和35年福井市生まれ、小中高と地元の学校を経て、名古屋工業大学へ進学。大学ではテニスや自転車旅行、バンド活動などを楽しみながら、堅実な学生時代を過ごしました。社会人としては大阪の専門商社で3年間勤務した後、昭和61年に家業へ。

平成16年(2004年) 社長に就任してから20年、現在は代表取締役会長を務めています。 社長就任当時は売上126億円、社員数は約170名。現在は214億円(令和7年1月期)、社員数も208名。リーマンショックやコロナショックなどもあり、常に右肩上がりというわけではありませんでしたが、地道な取り組みが確実に実を結び、ここまで歩んでくることができました。もちろん、北陸新幹線開業に向けた資材納入という大型物件もありましたが。

趣味としては、福井の金物屋を代表して楽器用の「のこぎり」演奏を10年近く続けています。また、社長ブログ(現・ほやほや会長日記)も平成20年(2008年)から17年以上継続中。ゴルフも35年以上のつき合いで(スコアは100前後)、家族3人でコースに出ることもしばしば。 意外としぶとい性格が、「長続き」ということに表れています。

創業者の出発点は「憧れ」だった

明治33年(1900年)生まれの祖父・幸四郎は、短距離走や寒中水泳で身体を鍛えた努力家でしたが、初めての職業は彫刻師の見習い。しかし不器用さから早々に挫折。その後入社した羽二重織物商でも派手な雰囲気になじめず、わずか半年で退職。そんな彼の人生を大きく動かしたのは、「英国製の自転車に乗りたい」という一心。 店先に飾られた“ラージ”という外国製自転車に惹かれ、近所の金物商に丁稚奉公へ。

そこから彼の商人としての人生が始まりました。朝6時起床、掃除、洗濯、新聞紙での袋づくり、日が暮れてからも釘やねじを数えながら店番。日中は街中だけではなく、山間部まで配達することもあり、夜遅くの帰宅は当たり前。それでも自転車にまたがり、大野や勝山まで足を延ばした話は、創業者としての原体験であり、後の誠実な経営の礎だったように思います。そして、大正8年(1919年)5月、幸四郎が若干19歳の春、吉岡金物店を創業します。

“電話を置くかどうか”に象徴される経営判断

大正13年頃、お客様から「電話を入れてくれませんか」と言われた幸四郎。しかし父・幸三郎は猛反対。「これ以上仕事が増えたら、体が持たない」と。 この親子間の意見の対立を乗り越え、電話を導入した判断は、後のビジネス展開に大きく影響を与えました。

合理性と親心。立場や視点によって正しさが変わる中で、顧客の声に耳を傾け、現場の実感を大切にする――この姿勢こそ、私たちが今も大切にしているものです。

創業者の実体験が現代の健康経営へと継承

ところで、寒中水泳や白山登山への挑戦も、創業者・幸四郎の健脚ぶりと実践力を物語っています。三十代の頃には、勝山駅から歩いて片道3日かけて白山登山を敢行。下山後に入った温泉で「何とも言えない良い気分だった」と語ったことは、自然との対話そのものだったように思います。

また五十代になっても寒中水泳に挑み続け、家族の制止も振り切って三国の浜へ出かける日々でした。「泳いでいる間は何とも思わない、むしろ気持ちがいい」と話していたように、“体力の維持こそが経営の根幹”という思いが習慣に根づいていました。

このように、創業者自らが健康を実践する姿は、現代において「健康経営」の源流とも言えるものです。社員の活力や組織文化に与える影響は計り知れず、私自身もこの思想を受け継ぎながら組織づくりに取り組んできました。

つづく

参考 竹内正人氏「随想録 自分史」 平成6年10月記
日刊県民福井「私の走馬灯 創業者 吉岡幸四郎」
吉岡幸株式会社 創業100周年記念誌