建築都市文化協会

一般社団法人建築都市文化協会

Architecture and Urban Culture Association

Column 3 of Member

祖父(ジイ)と川舟で 渡ったある情景
( わたしの人生、その1里塚での言葉たち)

株式会社アーサ・ASA会長 櫻川幸夫

今、私は建築設計の仕事をしています。社長は息子に2020年に全て譲り、時おり古いフォークギターを持参し何年か前から、古里の公民館めぐり。いつも30人ほどを前にして 史跡名を歌詞にまぜた曲を作るなどし、自称 ”語り部ソング“と称して自作歌を披露しています。50年かけて、6曲完成(笑)。

実は私、大学卒業後就職はしたものの、シングルレコード『帰郷』を友人と新宿御苑スタジオで吹込んだりしていました(1977年)。また、当時全国的にもヒットした、人気の “あのねのね『赤とんぼの歌 』、早稲田大学のザ・リガーズ 『海は恋してる』” 等のステージ演奏会での前座をつとめ、いつかはこの長く険しそうな建築設計と言う仕事から足を洗って、・・・ ノ~ンビリ 歌手で生きたい気分の、仕事に全く身の入っていない 今から思っても出来の悪い所員でした。
(・・・私の先生、事務所の先輩方 には 本心から誠にすみませんでした)

さて前半は 私の生まれた家でのお話からしたいと思います。

当時文明は進み、我が家にも 新品のナショナルラジオ(2スピーカー)。中からは笑い転げる浪速の漫才師 花菱アチャコ・エンタツや、神戸一郎の美しい歌声が夜の寝間に流れました。いったい、このラジオ“箱”のどこで歌っているのだろう?と裏の真空管の片隅に黒い大きなトランスを見つけ、この中が ”小劇場か!と発見、いたく感動しラジオを聴いていたのを覚えています。

私は福井市東の郊外、8反(8ha)ばかりの中農の長男として昭和25年(1950)に生まれました。父母と妹の4人で米をつくり、山でタキ木を拾い、将来の分からないまま、高校を卒業しました。

祖父の幸太夫(こうだゆう)は、明治10年生まれ。学校も整わない時代の、寺子屋育ち。しかし近くの酒生村役場に務めだすと村長付き右筆(日露戦争時の「軍事郵便」代筆)のち収入役。昭和になり50才での退職後は「富国徴兵保険」代理店を営み、趣味は囲碁とお酒。81才で亡くなるまで、毎日の朝は三角フラスコを囲炉裏(いろり)に置きお燗(かん)、そして仏壇に向かいお経を唱えるという熱心?な、極楽浄土に参りたい“後生(ごしょう)願い“でした。私が6歳の時に亡くなりました。 

3才になった幼い私、40年ぶりに櫻川家母屋に生まれた男の子でしたので、かわいがられ いつもお経を唱えるジイの後ろには チョコンとの私の影があったとか。

忠実なジイの役僧(やくそう)は なんの意味も分からずの“小坊主”でしたが声は良かったらしいです。
今にして思えば、ともにお経を唱え終えると、仏壇から壱圓札をご褒美にくれるので、私は あのラジオの下に持って帰り貯金。札束の積み重ねがうれしくて、お経を毎日続けたからでしょう いつしか全てのお経を空んじていたので、地元では神童か、天才か?(・・・そんなこと無いです)と噂され評判だったようです。

そこで ある日うれしくなったジイが、河向こうのまだ木橋もない足羽川を 竿さす川舟で私を脇三ケ村の寺に連行、連れて行かされました。その時の情景-残影がうっすらとても懐かしく 今日の「タイトル」としました。

このジイとのお経・歌唱体験は 後半でお話ししますが、私のその後の人生にとって、とても貴重な経験となっていたのです。まさに 『三つ子の魂(たましい)百までも』でしょうか。

手を合わせて! 合掌・・・・・『マンマンちゃん しなさい!』
いまでもジイのカ~ンという鐘の音と共に、奥座敷から呼ぶ声が聞こえてきます。

一方父は 田んぼ仕事の合間に、木製「額の縁飾り」の透かし彫り職人でした。
器用に糸鋸を操り、私に西部劇テレビに登場する拳銃“コルト45”を作ってくれた優しい父でした。おりしも住宅ブームの到来で、新築住宅の玄関・床飾りの内職も忙しくなった働き盛りの52才春、苗代で早朝突然に倒れ中風に。体の自由を奪われました。幸い命はとりとめ、歩行に支障は残ったものの、その後30年間81才まで元気でした。

社会人となって、私がもらったお給料を渡すと、お札を数え、家族に配るのを楽しみにしていた父がいました。そして父は自分でも出来る事、すなわち蚊で嫌がる家まわりの草取り、機械が入らない畔(あぜ)筋の稲刈り、病に倒れ絶望していた最初の5年とは( なぜそうなったのかは 今でも判らないのですが )、 笑って家族の手伝いをするようになっていました。よく話し、村の歴史の事、山の境の論地(争いごとのある字)など 今の私(酒生地区「歴史語り部」)としての源泉はこの事情によります。

私は現在、係りつけの医者には父同様に、2週間に一度は血圧測定等、以来「健康にいつまでも仕事」が続けられるように心がけています。「反面教師」としての父に感謝。

父の口ぐせ ・・・・・『 娑婆(しゃば)は 短い 』75才となった今も 私の座右の銘です。

高校での過激な受験戦争を経て、福井大学工学部建築学科に昭和44年(1969)に入学しました。そして夏すぐ、『 風 ( 歌:シューベルツ )』を口ずさみたくて、フォークソングクラブを設立。4人でフオークバンド “アイ ドリーム”を結成したのが 第二の”歌の人生“の始まりでした。ブラザーズフォア(米国)のコピー『7つの水仙』もレパートリーにしてました。
きれいな曲で今でも暗記し♪テナーパートを歌っています。

学生運動で1~2年余り授業が少なかったので、木造の音楽室でピアノを、プレスリー風に「明日に架ける橋」を歌い上げたりしてましたし、就職してからも、あの「赤トンボの歌」のあのねのね、清水国明さんらとは、FBCラジオ(福井放送)に毎週のように出演。楽しかったこの経験は、のち仕事上での色んな方との会話醸成(口碑聞き取り 伴奏役)に自然と入れる起点となったように思います。無論その時はもう会社でも中堅で、構造設計も少しは手伝えるようになっていましたが。

※ 付記 ; 福井大学の工学部建築学科を志望した動機について?

高校生の当時、来るべき「 EXPO ‘70 日本万国博」:1970年大阪千里丘陵で開催予定の“華麗な建築シヨ-”は、戦後日本の復興のシンボルだと話題でした。憧れていましたが、親戚には建築に関係した人は一人もいませんでしたし、ただ長男であることから、福井に残りました。

雪深い古民家に住む以上、長男は絶対に福井に残れとなり、ず~っと現在まで高校、就職先も福井市内となった訳です。

受験高校であったため、同窓のほとんどが県外へ。とてもうらやましかった、つらい思い出があります。

ただ母方の祖父は、ダム屋さんで、お盆の時など「 1級建築士になるといいぞ。」などと、なるべく自分の娘(母)のそばに私が居るよう、里の仕事「建築業」はいいぞ^とのうまいプロパガンダだったのかもしれません。

そんなこんなで 福井大学では、建築学科を受験しました。合格、卒業しましたが、今から申し上げる その後に波瀾万丈の人生が まだ待っているなどとは、知るよしもなかったのです。

では、おわりに仕事の話にしたいと思います。

昭和48年3月に大學を卒業後、当然建築設計の仕事は意匠、せめて都市景観学を実務で出来ればやりたいと考えつつ、福井市内の建築設計事務所に入社。20人程度の事務所でしたが、芦原温泉旅館や大規模な化学工場などを設計、また官公庁建物、学校や庁舎などもこなす素敵な事務所でした。しかしながら なにせ「 歌 !」しかやっていなかった私ですので、入社早々とても現役の人にはついて行けず “足の下”にも( 今に思うと )及ばない人間でした。

すなわち 「知らないことすら 識(し) らない」・・・人間でした。

かすかに手伝えるのは 1/200の「天井伏図」か、鉄骨の「軸組図」、「見つもり」の青焼コピーや 所長外出時の運転手。4~5年、な~んと“楽な”仕事でした。うれしくて・・・!

しかし不幸は、突然にやってきました!

25才を過ぎた頃、先パイが30才になり次々と独立、所長から『お前、学校出ているから、構造をやれ!』と突然の命令!ヤダ~。・・・すぐに出来る訳なく、私は日本建築学会の『RC造構造計算規準・同解説(昭和46年7月20日発行』を中心に勉強、しかしもとより“新品”同様の、真っ白なページ。何をどうすればいいのでしょう。

 すぐ、5人いた構造の先パイに毎分のように教えてもらいに席を立つと、『お前がいると、仕事が出来ン』のお叱りの言葉。もう構造δ=5wL4/384EI(たわみ量)は止め、どの仕事も受け付けずにいたら、とうとう出社しても仕事が来なくなり、4カ月間私の机の前の製図版は“真っ白のまま”。そして、胃かいよう、円形脱毛症に…悲惨。

父待つ家にお給料は持って帰らないといけないし、退社も出来ないし・・・。

さらに悪い事に、1977年製作の人生で「起死回生」をねらった友人と出したシングルレコード(昭和48年福井県「第一回シンガーソングライターコンテスト」優秀賞 1席)は売れず、一方会社の仕事でもあまり相手にされなくなりました。

が、人生捨てたものではありません。ひとつ「青春のオアシス」があったのです。

福井南ロータリークラブ提唱の、街(まち)の青年団で20~30才までの会員が集うローターアクトクラブでした。そこで救われました。

実は2週間に一度集う例会は25~35名、月一度の休日にいっしょに奉仕活動(駅前清掃等)の他 ダンスパーテイ企画・親睦会。みんな明るく元気にタンゴ・ジルバを手を取り合いながら踊り、青春の夢を語りあいました。それぞれの会社では将来を嘱望されている元気人、若い衆との交流でした。

しかし、時おりですが悩み事も聞くことが出来たのです。・・・・『 あなたの会社も、そんなの ?』との同じ境遇者とのなぐさめ合い。この仲間がのち、現在大阪万博で私どもがパビリオンの設計監理のお手伝いに参加できた 通訳相談者がそのクラブ員におられました。あの時お会いしていて良かったです。  

私は36才で、円満退職し、親戚の叔父(意匠)と2人で小さな設計事務所を始めました。会社の名前は「アーサ」。あのEXPO ‘70日本万国博覧会“お祭り広場”の大屋根の構造設計監理を、丹下健三・坪井善勝先生のもと、担当された福井県出身の川口衛先生のことば『 建物は「背骨」から美しい建築をつくりなさい。』にもとづき、弊社の会社名を決めました。一度うかがった時から 好きな句、言葉でした。

真ん中に「Structural Engineers(構造設計者)」を入れて、

『 Architect & Structural  Engineers Associates 』

またロゴマークのASAは、歌ごころから“ 若さ、暖かさ、爽やかさ ” の脚韻をのこしASA(アーサ)として発足 、もう40年です。この間の実積は弊社のホームページで御覧頂ければ幸いです。

 このASAの命名には、義理の叔父が昭和63年当時、東京の霞が関ビルにECFA(海外企業コンサルティング協会)の役をしており、そこで決まりました。

「これからは、英語でトエック3,500点」を目ざせ!との宿題を私に出すと、次のひと言・・・所員が増えるといいね。将来、スタッフが集まり来て下さるかなあとの私の問いに にっこり

『 川の魚でも、清らかな水に集まるんだよ 』と いたずらっぽく。

霞が関ビル地下のそば屋、別れ際に “ まじめに 焦らずコツコツとやって行きなさい ”

どんな小さな仕事でも、全身全霊でやりなさい !
 英語で ・・・・・『ミクロ エモーショナル アプローチ』 
Micro Emotional Approach と教えられ別れました。

さて、売れない歌手のつぶやき・・・・・『人生、1里塚での言葉たち』でした。
将来のある若い方、学生さんにも参考になればと 今回、慣れない筆を執りました。
もとより 拙ない文章 お許しください。皆様 どうかご健勝で。                         


(つづく)